千上舞桜です。
・2025年1月半ばより膝の怪我で入院中。
・病院名や医師名を伏せた上でリアルな表現を使用します。ご注意ください。
・表現者さんや身体を動かす職種の方への参考になれば幸いです。
こちらの記事の続きです。
2回に及んだ手術と数日間のお話です。
いざ!整復へ!
半分ほど食べてしまったお昼ご飯から約6時間後、整復の時間がやってきました。
病室のベッドのまま処置室に移動し、母と共に手術前の説明を聞きました。ただ疲れ果てており眠気が強く、とにかく安眠したい……と考えていた所、母が代弁するかのように先生に伝えてくれました。
さすが母。
手術をするにあたりコンタクトレンズを外さなければならなかったため、資料の文字はほとんど見えず、もうお任せします状態で怪我の疲労と戦っていました。
入院後に改めて荷物を持ってきてもらった時、愛犬のように可愛がっているポケモン2匹がベッドにやってきたのですが、前述の通りベッドごと運ばれているので彼らも一緒に説明を聞いてくれました。😂
果たして理解していたのだろうか。
さすがに手術室に移動するタイミングで看護師さんに回収されていきましたが、直前まで一緒にいてくれたの。愛おしい。
全身麻酔への緊張を直前までほぐしてくれた母と一旦別れ、手術室に運ばれます。ここでまた呼吸が乱れかけましたが、もう託すしかない。ビビり、腹を括ります。
とはいえ、手術台に移る時は悲鳴ものでした。板を入れてスライドさせるような移動だったと思いますが、それでも痛くてそれだけでもう疲れ果ててしまうくらい。
そんな私も酸素マスクを着け、点滴から麻酔が入れば秒で眠ります。
ギリギリまで張り合ってみようと試みましたが、無理でした。気が付いた時には麻酔から目覚め、人工呼吸の管が抜かれてむせていました。膝には再びニーブレースが巻かれて現状復帰されており、感触としてはうたた寝。
整復後は嘘のように痛みが和らぎ、やっと眠れると安心しました。麻酔から覚め切らない中で母とも会い、その後は病室で気持ち悪さと戦いながら酸素マスクが外れるのを待ちました。
何回かマスク外の空気を吸いましたが、開放感を求めるか、確実な酸素を求めるか苦しい3時間でした。1時間くらいは寝てたみたい。
酸素マスクを外した後は、遅めの夕飯をいただきました。食欲が湧ききらなかったので、2つあったパンのうち1つは冷蔵庫で保管。次回の手術後のご飯を増やす作戦。
嘔吐はしないものの横になるのは苦しく、ベッドを起こした状態で眠りについたようなような気がします。
悪夢の5日間
膝の整復が済んで安眠とはいえ、完全に心が落ち着いた訳ではありませんでした。整復前、本格的な手術までの間に再び膝が外れてしまうリスクを知らされていたことから、過剰な心配をしていたのかもしれません。
夢のどこかで必ず、怪我の瞬間がフラッシュバックしてしまうのです。
その度に目が覚めてしまい、週末は暇を潰しながら恐怖との戦いでした。記憶がほとんどないため基本寝ていたと思われます。
来る月曜日、まずはMRIを撮りに行きました。痛みを最小限に抑えるため、ベッドからベッドの移動にしていただきました。
そして午後、本当の悪夢が起こります。
恐れていた本格的な手術の前に再び脱臼という事態が起きてしまったのです。
起床前に体を動かした際、嫌な音が鳴った記憶があるのでおそらくそのタイミングではないかと予想。
もしかしたら看護師さん達には再々脱臼状態であることが伝わっていたのかもしれませんが、先生からの告白で初めて知った私。その後はずっと涙が止まりませんでした。
早めに痛み止めの点滴を始めていただきながら、翌日の手術を待つことになりました。
いざ、手術へ!
沢山涙を流しながらも、断食に向けた食事はしっかりと摂り、父から授かっていたパンを半分食べ、水分は禁止される15分前に最後の一口を飲み干し当日の起床を迎えます。
夕方前の手術予定のため朝食と昼食を抜かなければならず、空腹で悟りを開きそうでした。
そして、予定より1時間弱早まり手術に呼ばれます。心の準備をするための声掛けかと思いきや、あと15分じゃん!くらいのタイミング。ちょっとアトラクション気分。
今回も母に見送られて手術室に向かいます。母と別れてから少し待機時間があったため、その後は先生方に緊張をほぐしていただき、1回目よりも落ち着いて臨めたような気がします。
2回目の手術では怪我で膝をついた際?に砕けてしまった骨の欠片を取り除き、関節には人工靱帯を入れました。
筋肉を寄せる手術か人工靱帯か、開いてみてから最終決定をすると説明を受けておりましたが、より頑丈な方法になったようでした。(私自身は怪我の恐怖から人工靱帯を強く希望しておりました。)
目が覚めて最初に感じたのは、痛い!
そして寒い!毛布をかけていただきました。
手術台からベッドに移って、暑い!
(生意気すぎる)
3時間に及ぶ手術を終え、麻酔による気持ち悪さもある中、母と再会します。
手を握られた私、熱い!
即手を跳ね返してしまいましたが、母はその姿を見ていつもの私だと安心したそうです。
とにかく暑がるため、病棟に着いたら看護師さんがアイスノンを取りに行ってくださったのをなんとなく覚えています。当時過ごしていた病棟はご高齢の方向けに暖房が強めだっため、術後の私にはいつもに増して灼熱でした。
既に夜勤の時間帯で看護師さんも少ない中ご対応いただきましたが、我が家からの対策としては整復後の反省を生かして持ち込んでいたうちわが大活躍でした。
時間が経ち、酸素マスクが外れます。飲食は水分から解禁されました。今回は麻酔の副作用に加えて空腹による気持ち悪さもあったため、とにかく腹を満たしたい。しかし、吐いてしまわないようにまずは少しずつ水分を摂っていきました。
さて、冷蔵庫にはストックしたパンの残りがあります。時間をかけて、作戦通り胃に収めてこの日最初で最後の食事を終えました。
翌朝の食事は麻酔が残っていた影響で再びのろのろと食べていた所、母からの教えをふと思い出します。
縋り付くように味噌汁を飲み、しばしの眠りに就きました。
記憶があまりないので短め。
ただ、どちらかの手術中に母校のスタジオで後輩達と共に踊っていた夢を見て、麻酔から覚めてすぐに先生方に話していたのを覚えています。
術後から両脚には血栓対策で着圧のストッキングとふくらはぎの収縮を繰り返す機械、そして左膝にはニーブレースが巻かれており、ベッド上ではほぼ身動きが取れない状態で過ごすことになります。
足元には自宅からやってきたクッションを置き、脚の平行を保ちながら足先でパンこね職人をしながら自身でも血栓対策に励みます。
そんな状況下でも容赦なく始まるのが、そうです。リハビリ。
次回からはリハビリ編です。
こちらは現在進行中のため、何編かに分かれるかもしれませんし、分かれないかもしれません。
閲覧ありがとうございました。
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National Cancer Institute「透明なグラスを持った白いシャツを着た人々」